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二人目の子どもは天国に忘れ物を取りに帰ってしまった

母子手帳

2人目妊娠後、心拍が確認されず稽留(けいりゅう)流産となりました。ネット上には多くの子育ての情報や赤ちゃんの出産報告がありますが、流産の報告記事はそう多くはありません。このブログは胎児の心音が確認されないとわかった時に、書き残したメモを編集したものになります。誰かの参考になれば幸いです。

妊娠発覚から胎児の心音停止まで

二人目の妊娠が判明たした。夫も家族も皆で喜んくれ、まだ見ぬ第2子の誕生に思いを馳せた。2歳の娘にも「お姉ちゃんになるよ!」と言っていたらその気になったようで何かとお手伝いしてくれるようになり、娘の成長と、生まれてくる子の成長を本当に楽しみにしていたところだった。

しかし、9週目に行った3回目の検診での出来事だった。

医師から、胎児の心臓の音が聞こえないと告げられた。

突然のことで目の前が真っ白になった。

二人目も一人目と同様に、順調に大きくなり、出産するものだと疑うことがなかったわたしには、本当に青天の霹靂で、何も考える余地がなくなってしまった。ただただ茫然とするわたしに医師は「もしかしたら胎児のストレスによる不整脈の可能性もあります」などと慰めを言っていたけども、そんな可能性はほとんどないのだろうと医師の表情でなんとなくわかった。

週明け、また来るようにと、今度は夫と一緒に来るようにと言われ、診察室を後にした。

夫に子どもの心音がないことを報告

会計を待つ間、夫にメールを入れる。

「子どもの心臓が動いていなかったこと」
「週明け、一緒に病院に来るように言われたこと」
「このまま心音の確認ができない場合には手術になること」

メールの文章を考えることでようやく事の重大さを実感し、涙があふれてきた。母が泣いていたのに驚いたのか、娘がぎゅーっと手を握ってきた。いつもだったらジッとしていられず、あちこち動き回っている娘が、その時はおとなしく隣に座ってくれていた。

夫からはお昼休みに電話が来て、何を言っていたかはあまり思い出せないんだけど、ひどく動揺していた。帰宅後、ゆっくり話をして、流産になるかもしれないという現実をふたりで受け入れた。

あの時、ああしていればという後悔

妊娠8週目くらいに一度出血があったので、すぐ産婦人科に行き、止血剤と張り止めを出してもらったことがあった。そのときも子どもの心音は確認できていたし、前回の診察の時より大きくなっているということだったので、おとなしくしていれば大丈夫だとその時は考えていた。

実際は娘がいるので寝てばかりいるわけにもいかないのだ。

実家にでも帰って安静にしていればよかったのかな。
買い物に行ったことが悪かったのかな。

果ては、
マイナーな神社で買った安産守りがよくなかったのか。
などと、とんでもないことまで考えてしまうように……

あの時、ああしていたら、もしかしたら。

そんな風に自分を責めてしまって、ふとしたことで涙が出てきた。

稽留流産の診断

週明け、再度産婦人科に出向いた。夫も一緒に来るようにとのことだったが、仕事の都合上休むことがむずかしく娘を連れて行くことになってしまった。その日に限って産婦人科はとても混雑していて、12時をまわってもまだ診察を受けることができなかったので、そのことを夫にメールを入れたら、昼休み中に病院にきてくれた。結局診察には間に合わなかったのだけれど、心強かったなと。

診察を受け、医師からは、やはり心臓が動いていないということと、全く成長が見られないということで、おなかの中で胎児が死亡している状態の稽留(けいりゅう)流産と診断された。

病院へは覚悟を決めて来たはずだった。頭では現実を理解しているつもりだった。それでも「流産」という言葉を耳にして、理性を保つことができなかった。

うゎぁぁぁぁぁぁ

とその場で声をあげて泣いた。人前で声を出して泣くなんてことは大人になってからは初めてのことだった。

ベテランの看護師さんに慰められ、落ち着きを取戻し、医師から説明の続きを受けた。

「神様も万能じゃなくてね、85%の確率でしか子どもを作れない」「遺伝子の組み合わせる段階で、何か不具合が起き、流産につながる」「誰かのせいではなく運」「このまま赤ちゃんをおなかの中に放置すると、大量の出血を伴う流産になるかもしれないので手術が必要になる」

そんな説明をしてくれた。

その後は、泣いている間もなく術前検査となり、血液検査や、心電図、レントゲンなど様々な検査を受けた。手術は2日後と決定した。

胎児は1.94cm。

もうそれ以上大きくなることはない。

子宮内容除去手術

手術は日帰りで、静脈麻酔で眠っているうちに終わるよと言われたので、手術と言えどそれへの恐怖はなかった。手術当日は夫が休みを取ってくれていたので、医師から夫に前回できなかった説明を再度してもらい、その後すぐ手術の準備となった。

手術はラミナリアというスポンジのようなもの(??)を子宮に入れ、数時間後に手術室で処置をするとの事。ラミナリアを入れている間は特に痛みも違和感も特に感じることはなく、ただ、入れる際には少しだけ痛かったかなというくらい。

ラミナリアが子宮口で広がるまでは、病室にいなくてはいけないので、夫には一旦帰宅してもらい、18時くらいに迎えにきてね、とお願いをした。

点滴が始まり、手術室に行く直前、心配だったのか夫が再び病院に様子を見にきてくれた。「じゃあ行ってくるね」と。おなかに私と夫と娘と手を当てて死んだ赤ちゃんにバイバイした。

いざ手術室へ

手術室は古く、薄暗かった。点滴をしている管に何か注射器で液を追加しているなと思っているうちに段々と意識が遠くなってきた。

しかし、処置をしているその時、ふと目が覚めた!

い、いたい……

痛いのに声をあげることができなかった。

医師と看護師は何やら談笑しているようだった。看護師の「いやだゎ~~せんせぇ~!!」という笑い声が耳につく。

わたしにしてみたら、人生最悪の出来事なのにこの人たちにとっては数ある事例で、おしゃべりしていても余裕があるほど簡単な手術なのだろうな。

そんなことを考えているうちに、また意識がなくなった。

手術後はただ眠い

術後はすぐ、声をかけられ意識が戻った。看護師が大きな声で話しかけてきているのは理解できるが、どうにも眠い。しばらくすると夫が病室に来てくれて、娘は心配そうに泣いていた。わたしは夫と娘の顔をみたら安心したのか、またそのまま意識が飛んで、眠ってしまった。

2時間くらい寝ていただろうか。

起きてからは、とにかく喉が渇いていたので予め買っておいたお茶を飲んだ。昨日の夜から食事と水分を水分を取ることを禁止されていたので、久しぶりの水分だった。

術後の痛みはあまりなかった。ただ、ふらふらするだけ。

当日に帰宅

帰宅後は消化の良いものを食べてもOKで、お風呂に入ることはできないとのことだった。術後しばらくは出血があったけど、次の日には出血以外は特に普段通りの体調に戻っていたようだった。

結局手術の日は、9時に病院に来て、10時にラミナリアの処置、14時に手術、18時に帰宅と日帰り入院となった。料金は17000円程度。前回に行った術前検査の際には補助券は使うことができなかったので8000円程度かかっている。誰かの参考になれば……。

今後書き込む予定のない母子手帳

2回目の検診後(8週あたり)で、母子手帳をもらってきたばかりだった。これからこの母子手帳には何も記載することもないのかと思うとどうにも胸が痛む。それでも、一瞬でも赤ちゃんが私のところにきたという証。大切にしよう。

名前も考えてあげようと思うんだ。男の子でも女の子でもどちらでも大丈夫そうな名前……

思ったこと

流産をしてしまい、赤ちゃんをなくしてしまうというのは精神的にも落ち込む。それがたとえ確率的に15%の割合で起こることだとしても、母親にとって受け入れが固いこと。

まだ幾日もたってないので何気ないときに悲しい記憶がフラッシュバックし、ふいに涙をながしてしまう。

でも気を落としてしまってもしょうがないし、また赤ちゃんが戻ってきてくれることがあったら、絶対に元気なお母さんがいいと思う。だから、落ち込むのはこのブログに吐き出して終わりにしよう。

赤ちゃんにメッセージ

あなたはお母さんに似てちょっとそそっかしい子だったんだね。天国に忘れ物をしてとりに戻ってしまったんでしょ?今度はゆっくり支度をしてからこっちに来るんだよ。

お母さんも、お父さんも、お姉ちゃんも、あなたに逢えるのを楽しみに待ってるね。

それまで、またね。

主婦ちゅんこ

主婦ちゅんこ

日々の生活を送る上で、「いかに手を抜くか」という不真面目なことを真面目に探求している意識低い系主婦です。東京ではない首都圏に極小ペンシルハウスを建築し、夫と娘(小4)と仲睦まじく暮らしています。好きな食べ物は舟和の芋ようかん。

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1 件のコメント

  1. そう、まだ抱っこもしていないのになんでこんなに涙が出るんでしょうね。医師から告げられた途端に涙が止まらずに病院の廊下を走ってしまいました。
    私は一人目の子供を同じような状態で失いました。
    心音が聞こえない、成長していないので死産との判定で中絶することに。
    1泊しての掻把。
    初めての妊娠で何もわからなかったので子宮口をを広げる処置をしますと言われて大学病院に入院。ところが夜中に激しい腹痛、多分今まで経験したことのない痛みが来て唸っていると隣のベットに寝ていた母親くらいの年代の女性が心配してくださってナースコールしてくれました。
    でもドクターは誰もいないので朝まで待つしかありませんと言われずーっとうんうん唸ってしまって。
    今考えるとそこは婦人科病棟だったんですね。だからその女性は子宮とか卵巣とかの病気で入院していてそれもつらかっただろうに時々声をかけてくださって励ましてくれました。
    朝になりようやく医師が来て「あ、もう出ちゃってるね」と金属音がする膿盆の音とともに一人目の子供は私の中からいなくなりました。
    「女の子だな」という医師の一言と共に。
    もう30年近く経つのにその時のことは忘れられません。
    その後もうだめかと思っていましたが二人の子供に恵まれました。
    ちゅんこさんも忘れることは出来ないけどその分お姉ちゃんとそして
    自分も大事にしてほしいと思います。
    その後生まれたのは男の子2人なのでもしかしたらお姉ちゃんがいたかもしれないのよ、って話したのは中学生の時くらいでした。
    下の子はお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんがよかったよ、なんて言いましたけどね。

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